2022/01/30

教室便り2月号

教室便り


はじめに

こんにちは、尾山です。
さてもさても、お陰様で尾山ヨガ教室に生命力溢れる仲間がやって参りました。元気に泣き、元気に乳を吸い、元気に排泄し、元気に伸びをし、元気に欠伸をし、元気にバタつき……

『あ』から『ん』まで流れのままに

のびのび安気に参りましょう。

という思いが込められ、元気な彼は『安(あん)』と名付きました。

『安、安気(あんき)』は、不安なく心気が落ち着き安らいだ状態を示しています。それは何か加えられたものではなく、元気と同じように、元々ある自然なものです。ただ個人的に加えられた不安が無い手付かずの状態です。

錯覚であり、記憶に過ぎない個人(自我)は常に未来を憂い不安を抱え、落ち着くことがありません。残念ながら、この個人から不安が消え去ることは永遠にないのです。なぜなら偽りである個人こそ不安の源そのものだからです。

我々も『安』の名にあやかり、個人的に付け加えられた不安、そして不安の源(自他分離の認識)を取り除き、元々ある「安」へと、

のびのび安気に参りましょう。


2月のスケジュール

  • 2月11日(金)はお休みです。
  • 2月23日(水)はお休みです。

その他、通常通りです。


無我と自我

無我とは無垢な事実であり、自我とはその無垢な背景にこびりついた垢のような虚像といえるものです。

ヨガは、この虚像を虚像と見抜き、在るがままの"わたし"に帰り着くための教えです。

帰り着くとは言ったものの、事実はといえば、今すでに"わたし"は"わたし"であり、始まりも終わりも行くも帰るもなく"わたし"です。

この"わたし"を覆い隠しているのが自我(心の作用)であり、観られることによって分離崩壊していく偽物の『わたし』です。

産まれて間もない赤ちゃんは無我の事実に在ります。

自我に埋もれている無知な我々から見ると、そこには何かをしている個人がいるかのように錯覚しますが、赤ちゃん側(側も何もありませんが)から見ると、世界には自分も含めて誰もいません。

誰も泣いていません。誰も息していません。誰も乳を飲んでいません。誰も消化吸収していません。誰も排泄していません。誰も眠っていません。誰も覚めていません。誰も伸びをしていません。誰も欠伸をしていません。誰も痛がっていません。誰も記憶していません。

誰も、無理して頑張ってなどいません……
(赤ちゃんに「がんばって」などと無理強いを促すような声がけは、生命力を弱らせる言葉になり得ます)

自然に泣くことが起こっています。自然に息することが起こっています。自然に乳を飲むことが起こっています。自然に消化吸収することが起こっています。自然に排泄することが起こっています。自然に眠ることが起こっています。自然に覚めることが起こっています。自然に伸びが起こっています。自然に欠伸が起こっています。自然に痛みへの反応が起こっています。自然に記憶することが起こっています。

自然に、不要を避け必要を求めることが起こっています……

さて、

自然そのもの、生命そのものの赤ちゃんですが、『名前(言葉)』を覚え始める頃、その名前のついた『形体(身体イメージ)』と自己同一化していき、自我が形作られ「我々は個人である、我々が行為している」と自他分離の錯覚を起こし始めると言えるでしょう。

今回の話の要点は、赤ちゃんやブッダのように自我の認識、自他分離の認識が無かろうが、我々凡夫のように自我を認識していようが、「我々は個人ではない。我々は行為していない」という事実です。

我々はひとつの"わたし"であり、分別した何かは何ひとつなく、そこには何かをしている誰かがいるわけではなく、あるがままの生命自然が働いているのみ、という事実です。

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」

ゴーギャンの絵としても名付いたこの哲学的命題に、あなたの信念は何と答えるでしょう?

母胎から来た?
有機生命体?
土に帰る?

あの世から来た?
霊魂?
あの世に帰る?

知らない?

知らなくて当然です。「私はどこどこから来た何がしでどこどこへ帰る」などと答える人は噂を信じている狂信者であり、未だ私と身体とを自己同一視している凡夫です。

知られることがないのが"我々"です。知られる『対象』ではないのが"我々"です。分かり得ないひとつこそが"我々"です。

ヨガの教え、事実の教えを学ぶもの、あるいはブッダはこう答えるでしょう。

「我々はどこからも来ていない、我々は何者でもない、我々はどこへも行かない。我々は今ここに在る。我々は永遠に"わたし"に安住している」


おわりに

とある聖者は、彼女の妹が16歳で死んだときだったかに「どんなことが起ころうとも、そんなことはどうでもいいではないですか?」のようなことを言ったそうです。

まさかこんな非情な人が聖者とは思えない!?

妄想にのまれている凡夫からすると、聖者の態度はときに狂気の沙汰に見えるものなのです。聖者から見れば凡夫はみな、憐れむべき狂気の沙汰でしょう……

ですが、自我が自ずから滅した"ブッダ"は、物事とは、儚い一過性の幻想に過ぎず、生命自然の働きによって「起こることが起こる」ことを知っているのです。

赤ちゃん(身体)は生まれました。やがてその身体は死ぬものです。しかし、我々は生まれることも死ぬこともない"わたし"だと知っているのです。

ですから"ブッダ"は、誕生を喜ぶこともなければ、最期を悲しむこともないのです。

例えるのなら、凡夫は自身が"海"であることを忘れ、自身を『波』と同一化し、そのアップダウンにのまれて一喜一憂しているようなものです。

一方、誰もがみな"海"であると覚った者(ブッダ)にとって、『波』のざわめきなど取るに足らない「どうでもいいこと」なのです。

これこそ「離欲」が成就した態度です。

『波(自然に起こること)』は「どうでもいいことである」と伝えることは苦しみを終わらせる慈悲であり、『波(自然に起こること)』を「どうにかしなければならない重要なことである」と伝えることは苦しみを永続させる残酷さなのです。

起こることに酷く執着している人は、慈悲のなかに狂気を見いだし、残酷さのなかに正気を見続けることでしょう。

しかしながら、アップダウンの快楽苦痛、喜び悲しみを延々と繰り返しているのが『波』の本性です。『波』を使って『波』を避けよう、『波』から抜け出そうともがくのは愚かなことです。

『波』から抜け出す唯一の方法は、"海"を知ることです。

そして、

離欲:『波(起こること)』から関心を離すこと

修習:"海(在ること)"へと関心を向けること

"海"として在ること

これがヨガです。

我々は『波(心の作用)』ではなく、"海(意識存在)"です。

それを知って、

『あ』から『ん』まで人生で何が起ころうとも、

安気に(´∀`)、安気に(´∀`)

以上です。
2月も、よろしくお願いいたします。

尾山 広平

追伸
いよいよホームページを移行しました。まだ修正中ではありますが今後はこの教室便りも、そちらに投稿して参りますのでよろしくお願いいたします。