2023/10/29

教室便り11月号

11月号


はじめに

こんにちは、尾山です。

朝晩は寒く感じられるほど冷える日が増え、いよいよ本格的に冬の身体へと移行する季節に入ってきたことでしょう。

脚の内側から下腹への気の流れを強めて骨盤を締め、保温できる身体への移行です。

この移行が滞りなく素直に進むのなら寒冷に強いという身体だけではなく、下腹という中心に気力勢力が強く集まった状態になるため、行動力、集中力、消化力などが高まった状態になります。

寒冷期の過ごし方としてアーユルヴェーダ教典には、風の入らない暖かい家屋に住むこととや、重性、肥満作用のある飲食物(油性、甘味、酸味、塩味が豊富)を摂取することが書かれています。

身体を冷えから守るためには、内面的(骨盤を締める)にも外面的(脂肪を身につける)にも保温できる身体になることに加え、発熱するためのエネルギーを摂取する必要もあることでしょう。

今月も、生命に従い、生活を調えて参りましょう。


11月のスケジュール

  • 3日(金)の早朝クラスはお休みです。
  • 23日(木)はお休みです。


実のある努力

ゴータマ・ブッダの教えのなかには"二本の矢"という例え話があると伝わっています。
人は矢に刺さって苦しむのではなく、矢が刺さった後、2本目の矢を自らの手で放ち、自心に刺してしまうことにより人は苦しむのだ、という例えによる教えです。

矢に刺さると痛いです。しかしながら凡夫はそれに終わらず、どうしようと悩んだり、死ぬかもしれないと恐れたり、死ぬ前に一眼子供に会いたかったと残念がったり、矢を射ったのは手練れだろうと羨ましがったり、射った奴を殺してやろうと怒ったり、憎んだり……などと苦悩します。

また例えば、心に"苺のショートケーキ"という矢が刺さったとします。すると心は、美味しいという【快楽を求めよう】と2本目の矢を放ち、「食べたい。けど食べない方がいいだろうか? それでもいつか食べたい。今日はよく働いたから食べてもいいのではないか?」などという矢(思い)が刺さります。すると、この矢が抜けるまで(思いが解消されるまで)は渇きは癒やされず、イライラと不機嫌になり不快になります。

また例えば、心に"空腹感"という矢が刺さったとします。すると心は、空腹感という【苦痛を避けよう】と2本目の矢を放ちます。すると次には満腹という【快楽を求めよう】と3本目の矢を放ちます。すると心には「何か食べたい、コレが食べたい、アレが食べたい、何を食べよう? アレを食べよう」などという矢(思い)が刺さります。すると、この矢が抜けるまで(思いが解消されるまで)は渇きは癒やされず、イライラと不機嫌になり不快になります。

つまり……

人が苦しむのは【苦痛を避けよう】とする心の反感作用(恐怖)と、【快楽を求めよう】とする心の好感作用(欲望)に原因があるという、毎度・毎度のお話です。

反感を抱き、好感を抱き、恐怖と欲望に従い「苦痛から逃れよう。快楽を求めよう」とするその行為自体。つまり何かをコントロールして思い通りにしようとするその行為自体によって、人は苦しんでいるのであり、それ以外に人を苦しめる要因はないという説教です。

とある賢者は言います。

逃げようとする人は、いつもどこかに巧みに理由を見つけて逃げることを正当化する。
たとえ賢者のアドバイスであっても受け入れずに、自分の解釈に逃げようとする。
だから、ゴータマもイエスも妥協を許さない。

ここでの「逃げる」とは、【現状を拒絶すること】であり、不満を抱き何かを欲し求めたり、何かを恐れ避けたりすることです。

先程の「苺のショートケーキ」の例えであれば、現状に何かしらの苦痛(不満、不安)を感じているから、どうしても手っ取り早く快楽(美味しい)を味わいたくなるのです。世間でも言われていることですが、ストレスがたまると甘いものが食べたくなる、というのは精神的にもまた肉体的にも当てはまるお話です。

食べるべきか、食べないべきか、は別として…… あくまで例え話です。

一生嗜好品は食べなくてもいいと決意したのなら、2本目の矢は放たれません。ですから苺のショートケーキを見ても「食べたい」に付随する思いが浮かんでくることは止まり、不快も起こり得ません。そうなれば、食べようが食べまいが人は欲望から自由になります。

また先程の「空腹感」にしてもそうです。今日は食事を抜こうと決意したのなら、2本目の矢は放たれません。ですから空腹を感じても「食べたい」に付随する思いが浮かんでくることは止まり、不快も起こり得ません。それこそが解放であり、自由です。

しかしここで、未練がましく「少しぐらいなら食べてもいいか」などの妥協を許しているなら、即座に2本目の矢が放たれ、「食べたい」に付随する思いがさらに複雑に駆け巡り、より不快な状態になってしまうのです。

ですから妥協は許されないのです。

こと食に関しては、「世界には日々の食事さえ満足にとれない人がたくさんいるのだ。健康に生きていける分食べられるだけで何と有り難いことだろう」などという謙虚な思いを持っていれば、自ずと欲望は抑制され、思い煩いも減ることでしょう。

何時であろうと何処であろうと、自分を苦しめるのは自心の欲望と恐怖であり、寂しがり屋の傲慢さであることを忘れてはいけません。

快楽を求める努力、苦痛を避ける努力は一時凌ぎであり、変化するこの世にあっては終わりのない努力であり、まったくもって虚しい努力であることの理解が生まれたのなら、そのとき我々はゴータマ・ブッダの説いたと伝わる正しい努力(実のある努力)【現状を受容すること】へと導かれ、欲望と恐怖から離れ(離欲)、自然と安らぎへの「道(ヨガ)」へ進んでいくことでしょう。

参考


おわりに

今月も最後は安君のお話を少々。

発音できる言葉も段々と多くなり、いつしか「嫌だ」という意思表示を「にゃあむ」と言うようになりました(それまでは本能的に「いやー」と言っていましたが)。

そして、最近というわけでもありませんが今はいわゆるイヤイヤ期の只中なのでしょう。何かしら「にゃあむ、にゃあむ」と繰り返しています。

「自分」のことを「あん」と呼び始め(最近は「あんくん」)、色々なことを自分一人でやりたいという欲求を持ち、手助けしようとすれば「にゃあむ」と手を払い、一人で食べようとしたり、一人で歩こうとしたり、一人で掃除しようとしたりと、なかなか立派な自立心だと思うところです。

ですが、親の言い分が分かったのか、素直に手助けを受け入れてくれるときもあります。自分の拒絶意思を主張するときに限らず、親の思いが分からなかったり、自分の思いを表現できなかったりするときにも「にゃあむ」は起こるようです。

つまり、思い通りにならず現状に不満が生まれるときに「にゃあむぅ!」と声を張り上げることによって、その場でストレスを発散させているのですね。また、相変わらず「伸び、あくび」を素直に起こし、気分を切り替えたり、ストレス(気の停滞)の解消をしてもいますね。

我々大人は「にゃあむぅ!」とはいきません。その代わりに日々の伸び、あくび、ハタ・ヨガのポーズを多用し、ストレスを解消していくことも大切です。そして何より、「にゃあむぅ」と現状を拒絶することを止めるための日々の正しい努力(現状の受容、離欲、修習)を進めて、ストレスの生じない心(無心)に近づくことこそが大切なのです。


以上です。

11月もよろしくお願いいたします。

尾山広平