2015/04/30

教室便りvol.05

教室便り

こんにちは、尾山です。
5月を前にし、ようやく暖かさ(暑さ?)も安定してきたこの頃です。
そんな中、世間はゴールデンウィークに入りました。

身体はのどかにリラックスしたい春であっても、職場が変わりヨガ教室を去らかれた方もチラホラ。
人間社会では、のどかなんて言ってられないものですね。。。

かといって、今現在の行為が、今後の心身の状態を生み出すことは変えることはできません。
行為とは種子であり、状態とは果実のようなものといえるでしょうか。
種子にはすでに、果実の情報が内在されているとうことが言いたいわけです。

今現在の状態は、過去の行為が果実となって現れただけ。
そのことを真摯に受け止め、今現在の状態を責めることなく、今現在の行為を変えていきたいものだとつくづく思うこの頃です。


==========


● 5月のスケジュールのお知らせ

・ 4日(月曜日)、5日(火曜日)、6日(水曜日)お休みです。

※ 月曜日の授業4回目を、6月1日に繰り上げます(6月は5回あるということです)


==========


● 行法の手順

基本的には、行法は手順は次の流れで行います。

1.調座法
2.礼拝法
3.浄化法
4.体位法
5.調気法
6.瞑想法
7.礼拝法

今回は、二つ目の礼拝法について簡単に説明したいと思います。


<礼拝法:拝み方>

突然ですが、インド人の挨拶としてよく知られている言葉といえば?
そう、「ナマステ―」です。
インドでは日常的に使われる言葉のようですが、その意味をご存知でしょうか?

「ナマス」という言葉はサンスクリット語であり、中国で音写されると「南無」となったようです。
そう、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏でお馴染みの「南無」です。
非日常的に使われる言葉ですが、その意味をご存知でしょうか?

ナマス(南無)とは、服従する、帰依するという意味です。
テーとは、「あなたに」という意味です。
ですからナマステ―とは、「あなたに服従します」という意味です。

ビックリですね!
インド人はいい加減と耳にしますし、私はそうやすやすとインド人に服従するなんてこと、できません(笑)


◎太陽礼拝

授業で行う「太陽礼拝(法)」は、サンスクリット語では「スーリヤ・ナマスカーラ」と言われます。
ナマスカーラ(=ナマス)で、スーリヤは「太陽」を意味していますから、太陽礼拝という訳です。
しかし、太陽に服従しましょう!といったって、何をどうするのか・・・

さて、あくまで私見ですが、

太陽とは、地球生命の生みの親であると言えます。
ですから太陽礼拝とは、生命(自然)、生命力(根源力)への帰依であると解釈できます。

それは宇宙の意志とでもいえるものであり、自身の身体にも働く根源的な力です。
それは目に見え、名前の付いた現象に対する帰依ではなく、その奥にある森羅万象に内在する根源力に対する帰依である方がベターでしょう。

樹木ではなく、樹木を育む力への帰依です。
身体ではなく、身体を生かしている力への帰依です。
津波ではなく、津波を生み出している力への帰依です。

簡単に言えば、太陽礼拝とは「自然の働き」への帰依であり、もっと言えば「頑張らない」ってことであるというのが私の結論です。
・参照 ⇒ 「頑張らない」> https://www.yoga-space.biz/index.php?go=0MttWf


◎ヨガの目的

さて、ヨガの目的は、「無我であること(自分の不認識)」の実現です。
「そんな境地は求めていませんが・・・」という方も、聞いてくださいね(笑)

多くの方々がヨガを行う目的は、心身の不調改善/快調の維持などであると思います。
そして、心身の不調を生産しているのは、「自分の不合理な習慣的行為(思考や動作)」と考えます。
よって、心身の不調の生産を止めるには、「自分の不合理な習慣的行為を止める」ことが必要なわけです。

ですから、ヨガをする目的は「自分(自分から起こる働き)を止める」ことです。


◎礼拝の対象

礼拝法とは、礼拝の対象に従う(帰依する)宣言です。
礼拝の対象に従うことで、「自分を止める」ことになるからです。

ですから、ヨガは初めから終わりまで礼拝法なのです。
・参照 ⇒ 「礼に始まり礼に終わる>https://www.yoga-space.biz/index.php?go=wafLHt


突然ですが今後の尾山ヨガ教室では、礼拝する対象を次の3つとしたいと思います。

①意識性:偏見から離れ、正見(純粋に観察すること)の象徴です。
②自然性:身体の働きを含め、森羅万象を司る自然の法則のことです。
③行法:ヨガの行法(指導者の誘導、提案)のことです。
※ 指導者を絶対視する必要はありません! ある程度、素直に従いましょうということです!
(ちなみに、日本の武芸がそうであるように、ハタヨガも伝統的には指導者を絶対視する必要があると聞きます。それはもちろん、その方がより効率的に「自分を止める」ことになるからでしょう。)


◎礼拝法としての体位法

上記①②③の具体例を、背中を伸ばす体位(前屈)>https://
にてお話しします。
両脚を前に伸ばし、上体を脚に近づけていく体位です。

この体位になると途端に、「イチ、二―、サン、シー」とばかりに、弾みをつけて行う人が現れます。
弾みをつけるのはきっと、幼いころからそう習い、行ってきたからでしょう。
また、強引(無理)に頭を脚につけようとする人が現れます。
強引にしたくなるのはきっと、身体を柔らかくしたいという意思(目的)や、頑張っってストレッチした方が柔らかくなるという認識があるからでしょう。

弾みをつけていては、身体の感覚の微妙な変化も①観察できず、②身体の働きに従うこともできません。
強引に頑張って(自分を押し通して)いては、もはやヨガではありません。
「弾みをつけませんように!頑張りませんように!ストレッチしようなんて思いませんように!」という③指導者の提案に従っていないことになります。

強引に手に入れた結果であれば、組織(筋肉、筋膜、皮膚、靭帯、内臓器官など)はますます緊張していることでしょう。
強引という名の種子から、柔軟という名の果実が生み出されることはありません。

私事を申せば・・・

高校から大学生の頃にかけて、強引に開脚したり、強引に前屈したりしていた時期があります。
当時、脚は180度開くほどになったし、頭とつま先がつくほどにもなりました。
それは目的自体も、脚を開くことであり、頭と脚をつけることだったから仕方ないのです。

が・・・

ギックリ腰を何度かやりました。
そう靴下も履けなくなるような・・・
皆様は、そうはなりませんように!

今現在の自分の行為が、今後の自分の状態を生み出すのですから、未来の自身の状態にも責任をもち、今現在の自分の行為をよくよく観察しましょう。


◎誤認識を止める

礼拝心に背かないためにも、誤認識を止めておきましょう。

1.頭と脚がつくようにすることが目的であるという誤認識を止める
→ 目的は頭と脚をつけれるようにすることでははなく、○○であるという認識に変えましょう。
※ 目的は○○です。分からない方は、もう一度上の文章を読み返してくださいね。

2.頭と脚がつく=身体が柔らかいという誤認識を止める
 → ストレッチされ頭と脚がつくようになっても、組織の柔軟性とは無関係であるという認識に変えましょう。

3.頑張ってストレッチした方が、身体は柔らかくなるという誤認識を止める
→ 身体を硬くしている原因は、自分の強引さであるという認識に変えましょう。


==========


さてはて、長くなりましたが。。。
最後にもう一つだけ最重要なことを。

礼拝とは、対象を尊重し、対象に合わせるコミュニケーションともいえます。
ですから、自分が何をしているかその行為よりも、対象がどう受け取っているかその反応に意味があるわけです。
そのためには、対象に意識を向け、対象の反応を観察して、自分の行為を調整する必要があります。

そしてその対象が、身体であろうが、他人であろうが、何であろうが同じなわけです。
普段の挨拶では、相手の反応を観察していますか?
独りよがりの行為に終わっていませんか?
その礼拝が礼拝であるように、常日頃から気を付けていきたいものです。

独りヨガりはヨガに非ず!!


以上です。
では、5月もよろしくお願いいたします!!

尾山広平